絶望に効くクスリ~秋葉原の事件から~

2008.06.13(Fri)


「あいつは頭の単純な、 血も涙もないモンスターなんかじゃなかった――
本当は真っ当な人間だった筈なのに、
どこかですっかり狂っちまったんだ。
殆どはアイツの自業自得だった。それは認めるよ。
でも全部があいつのせいじゃなかった。
そんな事あるものか。」



↑上記のセリフは山田玲司著の『絶望に効くクスリ』という漫画からなのですが,ふとこんな台詞が思い浮かびました。



しつこいですが,再び同じ話題…。
すみません。
だけど現時点で1番感じている思いは今から記すことかもしれないです…。




世の中には性悪説というものが存在するらしいですが、
あ、つまり人間は生まれついての悪ってことね、
私はそんなものハナっから信じていません。
だいたい性悪説の指す「悪」って、

「人間が美しいものを見ようとしたり空腹感を覚えたり安楽を望もうとしたりするという自然な欲望のことであって、現代日本語のいう「悪」とは異なる。」
(※ウィキぺディアより。)

らしいやん。
本能のことを「悪」と言っているだけであって、
現代人が思っているような悪のことを昔の哲学者たちは語っていない。


オギャーと生まれついたときには、
誰も殺人したくてうずうずしてる赤ん坊なんておらーせん。
仮にそうだったら良心も道徳心も今頃人間は兼ね備えてへんわ。
そこら中で血みどろの闘いだろうし、今回の事件だって
こんなに世界中が衝撃を受けないだろう。
よって、性悪説は却下。



ただ,あたしは人間は生まれついての哲学者だと思っておる。
人間は考える葦であるとニュートンもゆっとった。
プラトンもデカルトも生きる哲学を語ってた。
ただ、その哲学に良くも悪くも自由意思を働かせることが
できるというだけ。


何度も言うように、犯人の行ったことは
断じて許されることではないけれど、
ただ真相が明らかになるにつれ、哀れに思えて仕方なかった。
ひたすら哀れだ。




私も犯人と同じような境遇、経験あるよ。
かつての自分とかぶる部分があって,思い出して精神的につらかったりした。
挫折??
おう,何度もあるわい。
しんどかったよ。
きつかったよ。
だから,犯人の追い詰められた気持ち,実は痛いほど分かった。




気持ちのやり場がなくて,壊れそうになる気持ち。
いっそ壊れてしまった方がラクだ。
現実から目を背けるために,悪者に成り済ました方がラクなんだ。
甘いとか,弱いとか,
そんな上っ面な言葉で片付けないで。



犯人の半生に共感,同情すらしてしまったりして。

彼は,かつての私の姿かもしれない。と,思えてたまらなかった。




あるひとに言われたことがある。



私たちの世代って,幼い頃から大人の顔色ばっかり伺って,大人の意見に左右されて生きてきたから,主体性がないんだって。

自分のために,
とか,
自分自身の理想のために,努力したり実践したり,闘い立ち向かう勇気を使わないんだって。


だから,壁にぶち当たったときに,自分がナイからすぐに崩れ落ちてしまう。
自己のない人生にモラルや理性なんて求められても無理なのだ。


まずは自分のために,自分の喜びのために,全ての物事を行えと言われた。

目からウロコだった。
だけどその通りだと思った。




私もずっと知らず知らずのうちにオトナや世間のためにいい子ちゃんをやってきて,自分の気持ちとズレが生じたときに,見事に仮面が剥がれ落ち,あれよあれよという間に奈落の底へと堕ちていった。

(と,自分で思い込んだ,と付け加えておこう。)


自分の欲望と向かい合ったとき,何も悪いことをしていないのに,うしろめたさと劣等感で気がおかしくなりそうになった。


こんな目に見えない社会風潮という幻想の中で,それでも自己を確立しようともがいて,弾圧されて(正確にはこれも思い込み。),それでも縛られた世界の中で自分を生かそうと必死になって,また隅に追いやられて,
そのたびに,やり場のない負の感情の矛先が,自分や大事な人達に向けられた。


人間は,何らかの形で自己を表現することを欲する生き物なのに,まだ若かりし頃の自分には,自己を自由に表現することって本当に難しい世の中だと感じられた。


よって,全てがどうでもよくなった。




人を殺したいと思ったことはなくても,あのひとさえいなくなれば,と思った経験は誰にだってあるだろう。
それは他者を心の中で殺していることに同じ。


自分に信頼が置けず,自分の今現在や将来がどうでもよくなり,妥協したり甘くなったり,自分にも他人にも優しくなれない。

これは自分の命を無駄にしていることと同じ。
つまり自分をも殺しているのだ。



そう思うと,私はかつて何度自分と他人を殺してきただろう。



ただ私が今日まで犯罪者にならずに済んだ理由は,別に殺すまでの理由がなかったのと,ほんの少しだけこうしたらどうなるかと先が読めたことと,ほんの少しばかり犯罪者にはなりたくないという見栄や理性が働いたことと,傷付けると痛いということを知っていたことと,それを他人が味わう様子を見たくないという良心と,自分の今や将来を捨て切れない弱さと冷静さを持ち合わせていたからだろう。


つまり,まだ心に冷静になれるだけの余裕があったのだね。




今回の犯人が選んだ「無差別」…。
あまりにも冷酷すぎる。
だけどきっと,彼にとってはリアリティの感じられない,まるで映画のエキストラやゲームの敵のように,名前すら持たない,重要ではないモノ達を標的にしたに過ぎないのではないか。

不満や恨みがあるなら,なぜ自分と直接関わりのある人達を殺さなかったのか?


………殺せなかったのだろう。



リアルに生活感や感情を感じられる人間は,痛ましくて殺せなかったのではないか。
だから,実際に生きていることの想像つかない,見ず知らずの人々を選んだのだろう。



犯人の幻想は,ツメが甘すぎだ。
少し冷静になれば,分かることなのに,完全に心の迷いに捕われてしまった。
まるで悪魔にとりつかれたかのように。
しかしこれも彼の仮想でしかない。


彼は自己表現のベクトルを完全に間違えて,取り返しのつかないことをしてしまった。

でも,そうまでに追い詰められた犯人を哀れに思うし,そこに気付けないほどに覚醒されてしまった神経に言葉もでない。



きっと,やってしまった後に気付いたのではないか。
彼らは生身の人間であり,取り返しが二度とつかないということに。

彼が夢見ていた殺人やワイドショー独占は,ほんの表舞台に過ぎず,実際ははるかに悲惨で,妄想が細部にまで行き届いていなかったということに。


甘い。甘すぎる。
そんな甘ったれた計算漏れしまくりの計画を実行するなと叫びたい。






たしかに,本当に怒りのやり場がなくて,どうすればいいのかわからなくなるぐらい追い詰められるときって,ある。

心が感じやすい人は尚更。



だけど私自身は,それがあったからこそ,今の自分の人生を気に入っているし,自分が好きなのである。



あたしもかつてはたいがい負けっぱなしの人生だと勝手に悲観していた時期が何度もあったけど,今となりゃあ数々の挫折って,私にとっちゃ立派な勲章みたいなもんだ。


それらを経験してからの私は,それを知る前の自分よりずっとずっと人生を楽しく思えるからだ。


心底幸せだな,楽しいな,と思える。
多分底を知らないひとは,哀れなことに,浮上する喜びを知らないはず。



だけど私がそう思えるようになったのは,素晴らしい人々やモノや本や音楽との出会いがきっかけであった。


私はこれら全てに成長させてもらい,また救われた。
困難そのものにさえも,おかげさまで磨いていただけた。



たくさんの出会いに,
タイミングに,ひたすら感謝したい。




あたしの周りには自分の想像を越えるほどの挫折や困難を経験している人がたくさんいるけれど,みーんな一味も二味もある,魅力的な人間ばかりだ。
すごく尊敬しているし,私もこうなりたいと思う。

そう思うと,挫折って人生の中ではすごく大切な要素なんだよね。
あたしは19歳のときに当時尊敬していたひとから
「なんにも苦労を知らずに生きてきたんだろうな。人間として薄っぺらい。」とか言われて,心底悔しかったし焦ったものだ。



今から思えば,それも馬鹿馬鹿しい話だけどね。



だから私は弟や自分の生徒が挫折感を味わうと
「これからどう磨かれるか楽しみだね」
と心から思う。
そしてより一層の飛躍を信じ,願い,そのために手を差し延べたいと本当に思うのだ。
自分がかつてそうしてもらってきたように。


でも,
そのひとの人生は結局そのひと自身が勇気を持って自分との闘いに挑まなければならないから,
私は私の人生を全うし,決して犠牲になることなく,でも言葉のチカラと想念で他人に光を与えることをしたい。いや,できるんだと信じている。






今回,悲しくて悲しくて
ひたすら悲しくて仕方がないことは,犯人に私のような機会を与えられなかったということ。。。



嗚呼。
もし,もっと早く,彼が誰かに出会っていれば…


もし,彼の心の拠り所がもっと明るくて優しくて希望の光のような人々や本や哲学や芸術,芸能だったならば………



もし,もっと早く,彼の心が癒され救われていれば……


もし,私が彼に伝える機会があれば………




そう思うと,悔しくて悲しくてたまらない。




ひとの心って,
すごく順応性が高いんだよ。
犯人の行為自体を擁護するつもりはさらさらないけれど,彼の心はもともと真っ白で,脆いガラスのようで,たまたまそのときに出会ってしまったものがまずかっただけだと思う。



私も最もすさんでいた時期,情報に左右されて心がイカレてしまったのを身を持って体験したからすごくよく分かる。


もう何が正しくて何が間違っているのか,判断が鈍ってくるんだよね。



私も親が放任主義になったり,突然口だけは教育熱心になったり,かと思いきや何故か2ちゃんねるにハマリ,子供の意見は全く信頼せずに,2ちゃんの偏りまくった批判的な,闇の情報をすっかり信用して,罵倒しまくってきたという悲しすぎる経験がある。


今から思えば馬鹿馬鹿しい。


だけど,あの頃は本当にどうしようかと思ったし,親の発言(つまり2ちゃんの意見やら世間体やら。親っつーのも主体性がない場合が多いのだ。)に右往左往して,精神的に本当に参ってしまった。


そんな10代を過ごしたから,同時にネットの偏った情報にすっかり躍らされ,覚醒される怖さもイタイぐらい身をもって体験している。



今でもワイドショーを観ながら,まるで自分のことのように加藤容疑者の気持ちを大怒りで代弁してしまうことがある。



そのたびに,
その横で親は黙って聞いている。




当時は解らなかったこと。
だけど,自分が変わろうと努力したら見えてきたもの。


苦しみは永遠には続かない。
むしろ,今すぐ終わらせることもできる。
自分の心次第で。
そして親も環境も,柔軟に変化,成長するものである。




加藤容疑者は,変わろうとする努力をしなかったんじゃなくて,まずそれ以前に,変わることが出来るということに気付けなかったんだろうな。


悲しいな……。






個人の思いひとつって,限りなくちっぽけなモノだと思っていたけれど,
自分の想念が世の中に伝染し,影響する,

だから,明るい心を持て,って聞いたことがある。




そして今回,ひとりの個人的な負の感情が,世の中の関係のない人達にまで大きな悲しみの波動となって被害が及んだ怖さを改めて思い知らされた。



この事件で本当に心から感じ,誓ったこと。



少しでも多くのひとに,自分がそうしてもらったように,光を,愛を,差し延べるということ。

少しずつ,少しずつ。


でもそれが,徐々に広まっていけたら。


一人でも多くのひとの心が救われたら。

そしてやがては全てのひとの心が救われたら。


私は,積極的に,そういう思いを発信していこうと思った。

そして,価値観を押し付けるのではなく,自身が説得力のある生き方をしなければと思った。


自分の小さな思いが社会に伝播していくことを祈って。

それが社会的自覚,責任を感じて生きるということなのだろう。


このような事件はこれ以外解決の方法がないのだ。

いつか解決する未来を信じて。



バッシングならいつでもどこでも,素人でも出来るわけ。

メディアは本来,もっと有意義に活用して欲しいのよ,なんて憤りを感じながらも,私に出来ることをしていきたいと心から思う。




被害に遭われた方々の尊い命を決して無駄にすることなく,私たち自身の意識が変わっていけたら……。
スポンサーサイト

COMMENT

POST COMMENT


プロフィール

saty33

Author:saty33
FC2ブログへようこそ!

最新コメント

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR
↑
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。